言葉について思うこと。
SNSで自分のことを語る人が増えて、言葉の精度が上がった。
思っていても言葉にできないもどかしさが総量となって、あちこちに蓄積される。
そしてそれを言い当てる言葉がある日現れる。
そういう言葉は一瞬にして広まる。
最近だと、毒親や生きづらいがそう。
負の感情だけでなく、尊い、神とか高揚する言葉もだと思う。
どちらも深く根を張って土台になるような感情を言い表しているから強い。
そういう感情の言葉を良い当てすぎると、共感は快感だから中毒になってしまう。
本当は状況は改善されていても、生きづらいと言い続けてしまったり、
魅力に思わなくなってきても、神だと言い続けてしまうことになってしまう。
最初の強度と同じぐらいの快感が得られているうちはいい。
けれど、もし心が変わっても言葉が変わらないままで、
どこか違和感があるなら、その言葉を手放す時だと私は思う。
しっくりしない言葉を使い続けていたら、心が混乱して麻痺してくる。
みずみずしい感動を覚えた瞬間の強さを一番大切にしなくちゃいけない。
それは高揚する言葉も負の感情の言葉も同じだ。
こう思っていたんだと気づいた時の衝撃を、そのままに行動しなくちゃ意味がない。
一番最初の衝撃で、ちゃんと動く体にしておかないといけない。
何度も使うのは中毒ではなくくて、ベースとしてずっとある感情だから使い続けて何が悪い。
そういう意見もあると思う。
でも、私は言葉のための言葉でなくて、行動のために言葉はあると思っている。
ずっとそのままの神と尊さと生きづらさで、生きていくのか?
最近よく見るその言葉を使う時、心は本当に満足しているのか。
ちゃんと見つめていきたい。