投資と起業とホロスコープ観察日記。

2020年コロナ真っ只中に起業。7月から投資も開始。ホロスコープにハマってるので、からめて語ります。

無償の愛とは。

無償の愛をもらえなかったから、人生つまづいた。

ざっくり書くとこういう話が多い。

 

でも、無償の愛ってなに?

 

無償の愛って日本的というか、美学というか独特なイメージがある。

苦労を見せない、見返り求めないとか…

どこにも正解のない無理ゲーに見える。

 

答えがないから無限に要求してしまう。

理想の無償の愛を子供が求める。

しかも遡って求められるから、永遠にできる。この仕組みやばすぎない?

 

いやいや、与えるのあんたの親やで、限りあるやろ。

よく親を見てみろ。普通の人間だ。

 

海外で無償の愛という概念があるのかはわからないけど、

受け取る能力も必要なのでは?

それを教えない限り垂れ流しというのもあり得る気がする。

 

昔英語の教科書の例文で、

愛は与えすぎてもダメにならない唯一のもの。

みたいなのがあった。英語は覚えていない。

 

過剰にあげても大丈夫という話なだけで、無償かどうかは別なのだ。

無償の愛は、量の話なのか、見返りの話なのか、質の話なのか。

 

無償の愛という言葉がある時点で、愛は無償ではないのだ。

結局ギブアンドテイクだよなー。

 

ギブアンドテイクを学べなかったから、ギブばかりになってしまう。

 

 

 

2人とも暇な夫婦。

食べる分だけ稼ぐスタイルなので、月の半分は暇である。

夫も私もこの一年、ずっと一緒に居すぎた気がする。

 

今年はそれぞれがもうすこし、別々のことをして、

体験を2倍にしていきたいと思う。

今のところ、2人で一つのことしかしていない。

それも大事なんだけれどね。

 

今日は久しぶりに友達と会うから楽しみ。

夫は新年早々1人で山を登りに行った。

縁起が良さそうなので、運を持って帰ってきてもらいたい。

 

 

不幸を売りにしている人。

 

知り合いで不幸を売りにしている人がいる。

はっきり言って、苦手なタイプだ。

嫌いと言ってもいい。

何度か食事したことがあるけれど、

お互いに合わないと思っているので、会わなくなった。

 

不幸を切り売りして人を集めて、

それで仕事をしているように見えるのが、私はダメだった。

 

スターウォーズがよぎる。

ダークサイドは魅力的だけど、やっぱりつらいよな。

心が楽になる瞬間は、いつも明るい方だったから、闇の魅力はわからない。

 

私は健やかで元気な人たちと一緒に働いていきたい。

 

育て方より、生き様なのかもしれない。

最近、家族について考えることが多い。

母は私のことを大切に育てたというし、実際にそうだと思う。

娘命なのは私から見てもわかる。

 

でも、そのことに関してはありがたいけれど押し付けがましいと思っている。

それ自分で言うか?

 

ただ、夫いわく

「お母さんに感謝したほうがいい。その愛嬌はお母さん譲りだよ。」と

事あるごとに言われている。

 

ただ、私は母から、女は愛嬌だとか、愛嬌のある人はどういうものかなんて教わったことはない。

 

なぜ私は母みたいな愛嬌があるんだろうと考えていて、

母の生き様をみて、私はそれを習っているんだと気づいた。

どう育てたかよりも、母がどう生きているかを私は見ていたのだ。

そして、愛嬌があると得だと気づいたのだろう。

 

父の余計なことを言わずにずっと見守っているのも、

母と私が喧嘩をしても、どちらのの味方もせず中立を守り続けるのも、

そういう父の生き方だ。

 

私が何か一つのことが起こった時は、両方の意見を必ず同じだけ吟味する癖があるのは父を見ていたからだ。

それは決して対立でもなく善悪でもないのだ。

 

今の時代、育て方に注目が集まりすぎていて、自分のことがおろそかになっている。

だから子どもは戸惑うのかもしれない。

 

親は子どもに背中を見せろと言うのは正しい気がする。

 

普通という圧力はないけれど、それなりに大変。

普通の家に生まれたかったと泣いたことがある。

確か中学か高校の時。

クレイジーな家だったけれど、その分自分で色々考えることも多かった。

内容は覚えていないけど、

反面教師にしようと色々な場面で決意した時の気持ちだけ覚えている。

 

私は私に満足している。

それが親のおかげかはわからない。

 

私が普通の家で羨ましいなと思っていた子は、

たまたまかも知れないけれど弱い。

就職で全員つまづいている。

それがその子自身由来なのか、親由来なのかはわからない。

 

親が普通だと責められない。自分に矛先が向く。

親がずれていると責められるから、私はその分楽だったのかも知れない。

普通って強いんだなぁ。

 

たまに芸能人が幼少期大変だったと話しているのを読んだり見たりすると、

この人はすごくまともで自由そうで羨ましく見える。

 

ある程度狂った親で、セーフティネットはしっかりあって、

愛情は形に違いはあれど、たくさん与えられているのがいいのかも知れないと最近思う。

 

 

 

 

 

クリスマスの飾り付け。

街に出るとクリスマスソングと、

飾り付けがしてある。

 

ツリーはリースになって、

カラフルな電飾は単色になって

昔よりはクリスマス色が薄くなった気がする。

 

家の中にはクリスマスらしいものは一つもない。

フライングタイガーとか、

雑貨屋の前を通ると、買ってみようかなという気になるけれどやめておく。

 

夫がモノをあまり好きでないのもあるし、

捨てることを考えるとめんどうになる。

 

300円だから買いやすいけれど、

300円だから、すぐに捨てられる。

でも捨てるのはつらい。特にクリスマスものはかわいい。

来年またしまっておいて出すかと言われれば、

300円だから新しく買ったほうがいいと思ってしまうと思う。

 

そしたら取っておいても来年の私が困る。

飾るか捨てるか考えないといけない。

毎年一つずつ増えても困る。

 

物を手に入れる時、手放すことを考えるようになったのは最近だ。

メルカリとフリマでこんなにたくさん手放すべきものを持ってたことに気づいたのと、

夫がどちらかといえばミニマリストであること。

 

私の時間が増えたせいか、

考える時間が増えて、本当に必要なものだけ手に入れるほうが、

いいと考えるようになったこと。

30年ちょっと生きてみて、一生物はないし、いつか飽きると実感したこともある。

 

クリスマスの飾りも数万を出して、

一生毎年出し続ける愛せるものが見つかれば、

私は買うかもしれないけれど、

きっとそれでも飽きるし、センチメンタルになりすぎると思う。

そこまでモノを愛せない気もする。

きっと途中から、寂しくなってくると思う。

ああ、冬だなと思いながら、同じ飾りを20年出し続けるのは、

愛というより、執着とかホラーを感じてしまう。

 

きっとこどもができたらきっとクリスマスの飾り付けをすると思う。

体験をしてもらいたいから。

私も一通り、季節の行事を中学生に上がるまで体験している。

だから私はきっとそういうものに執着していない。

思い出も気持ちも楽しさも知っているから。

 

それがないと、大人になって取り返しに行かないといけなくなる。

こどもの体験は、大人になったらもうしなくてもいいようにしておく

ベースみたいなものなのかもしれないと思う。

 

できなかった、クリスマス。

できなかった、ひな祭り。

できなかった、色々なものやこと。

 

私にはそういうものがない。

それはとても幸せで恵まれたことだったんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女を取るか、人を取るか。

 

25歳くらいの時、話の中で同い年の男の人から

「女の人は、人として認められたいのか、

女として認められたいのかどっち?」

と聞かれたことがある。

 

私は即答で

「人としてに決まってるじゃん」

何言ってんだこいつぐらいに思ったけれど、

すぐに30すぎぐらいの女の人が

「私は女として認められたいけどなぁ〜」と言った。

 

 

はああああああ?!だった。

社会に出て仕事を始めてから、

どれだけ男性とフェアになれるか戦っているのに、

この人は女として認められたいんだと驚愕だった。

 

 

私は女として認められているから、人として扱われたい。

彼女は人として認められているから、女として扱われたい。

周りの聞いていた男性は声に出さないけれど、私も含めてそれを察知した。

 

私のがんばっている先に、彼女がいるんだと思った。

先に女性として認められるか、人として認められるか、

 

 

そして大体の場合、女の扱いは先にやってくる。

女性として認められるのは、ほとんど見た目だから持って生まれたものだ。

そのまま女として生きていくか、

人としても生きていくかを選ばなくてはならない。

少し前まではここで大体の人は女として生きてきたと思う。 

いまは違う。

人としても認められるために頑張っている。

 

だから、努力せず女性として扱われる人がいる中で、

女性として扱われるためにも努力をして、

人として認められるためにも努力をしなければならない人がいる。

 

そうなった時に、やっぱり美人は得だ。平等じゃない。

でも、女性として扱われたが故に、

人としてどこまで認められるかを手放した人もいる。

 

中学の先生が、ふいに

女として生きていくか決めるのは、

中3が境目と言っていたのを思い出す。

 

大学ですごくかわいい女の子と友達になったけど、

入学の時点で、母になって3人産むのが夢だと言っていた。

もう、ずっとそういう価値観でしか生きてこなかったんだろうなぁ。

あれも一つのスポイルされた結果だと思う。